データないの?だったら、あなたの感想ですよね?

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インターネットの普及によって、色んな事柄を知る機会が増えた。多くの人や企業が、多様な情報を提供している。

知りたいことが増えれば、ドンドン時間が足りなくなっていく。仕事や家事や睡眠や、それらを削るにも限界というものがあるのだ。

簡潔に情報が記されたサイトは、多くの人々にとって有益だ。効率的に知りたい情報を得ることができる。大事なことさえ分かれば、問題ない。

簡潔にまとめられた情報の中には、「一般的」という言葉が度々登場する。

「一般的に○○○だと言われている」という一文だ。

なぜ、そう言われているのか、その情報が正しいかには触れられない。理由なんて求めていない人々にとって、長ったらしい説明は時間を奪われるだけの不要なものなのだ。

スマートフォンの構造やOSの中身を知らなくても、便利にアプリが使えれば、それで充分。

株や為替、暗号資産の仕組みを詳しく知らなくても、売買方法さえ分かればいいし、最終的に利益がでれば、もっと良い。

もちろん、僕も同意見だ。誰もが最短コースを探し回っている。時間には限りがあるのだから。

一方で、情報発信する側も同じ立場で良いのかについては、考えてしまう。

「一般的」だとされて発信される情報は、本当に一般的なのだろうか。

「一般的」に高額当選などしないとされる宝くじも当たると信じて購入されるのだろうし、「一般的」に梅雨どきは雨天が続くものだが天気予報は休止されない。「一般的」にプロスポーツ選手になるのが難しくても野球やサッカーは子どもたちに人気の習い事で、「一般的」に時間に正確だとされる日本人も外国人との待ち合わせに遅れたからといって切腹しろとまでは責められない。「一般的」に起業しても成功しないなら政府もスタートアップ支援策など考えないだろうし、「一般的」に安全だと言われる日本でも凶悪犯罪は発生しているのだ。

「一般的」という言葉には確率的な意味が含まれているが、何%から「一般的」の仲間入りができるかの明確な定義などない。だから、感覚的な要素がどうしても紛れ込んでしまう。

「今川焼き」だか「大判焼き」だか「回転焼き」だか「おやき」だか「二重焼き」だか「御座候」だかは、どれを一般的な呼び名とするかは難しいし、決めれば誰かから文句が挙がるだろう。

「一般的に御座候と呼ばれる食べ物ですが、全国では色々な別名で呼ばれることがあるようですね」

僕には違和感しか感じられない文章だが、兵庫県民なら、すんなり受け入れられるのかもしれない。

つまり、「一般的」という言葉には確率的な意味があると同時に、地域性も加味して考えなくてはならないということだ。日本国内だけでなく、言葉や宗教や気候や歴史の異なる世界中の国々を含めて。

「一般的」と言われている複数の情報がまったく異なる内容だったら、利用者は、どちらを信じれば良いのか分からなくなるはずだ。「一般的」な情報が部分的にコピペされて増殖していけば、そのような事態が多発することは避けられない。

これはAIサービスにしたって同様だ。信頼性が高いとされるソースを中心に世界中から情報をかき集めて、学習データとして利用した結果、正確性は保証できないという注意書きなしには回答することができないのが現状なのだから。

誤った情報が提供されたことで「AIもまだまだ」などと口にする人々を目にする機会も少なくないが、まだまだなのは学習データを提供している人間側なのだと感じてしまう。

信頼性の高いソースを優先し、複数の情報源を比較して一貫性のある情報を選択し、最新情報を反映させて、科学的な原則や歴史的な出来事を重視する。そういった論理的な判断をしてみても、誤った情報が導き出されてしまうのだ。元となる情報に矛盾が生じているのだとすれば、どうしようもない。

試しに、どんな情報に矛盾が生じやすいかをChatGPTに尋ねてみたら、「政治、ニュース、健康、科学、歴史」だという返事が返ってきた。ただし、これらは「一般的」な例だという断りの文も付け加えられて。

誰かに向けて情報を発信するならば、情報の誤りを最小限にするよう努力したいと僕は考えている。もちろん完全な正確性の保証などできないが、調査範囲を広げて情報源を増やせば、正確性を高めることは可能だ。

同じような想いを持つ人はいないだろうかと探していたら、次のような言葉がみつかった。

Without data, you’re just another person with an opinion.

William Edwards Deming

日本語訳するとすれば、「データないの?だったら、あなたの感想ですよね?」といったところか。

もちろん言ったのは、ひろゆき氏ではない。ウィリアム・エドワーズ・デミングという統計学者だ。

このデミング博士は、日本の経済発展に大きな影響を与えた人だ。

PDCAサイクルとして知られるデミングホイールは、PDCA サイクルではなく PDSA サイクルであって、第 3 ステップは、Check ではなく Studyなのだと語っていたと言われている。

「一般的」にそう言われているのではなくて、「W. Edwards Deming Institute」というデミングさんの名が冠された研究所が、そう伝えている。

僕なんて、PDCAサイクルが、米国企業から始まった品質管理の手法なのだろうと思っていたぐらいだから、日本経済の発展に貢献した後に世界へと広がっていったことなど知るはずもない。そんな僕でも、「W. Edwards Deming Institute」という後ろ盾さえあれば、PDCAではなくPDSAだなどと胸を張って言えるのだ。

つまり、明確な根拠さえ提示できれば情報の正確性を高めることは可能だし、根拠となるソースの信用度が高ければ情報の信用度も高まる。

そういう意味で、統計というのは信用度を測りやすい。サンプル数が多いほど信用度は高まるからだ。

僕が足を使ってひたすら調べまくったとしても、圧倒的なサンプル数の総務省の社会生活基本調査やNHKの国民生活時間調査やの結果には、信用度で敵うはずもない。幸いなことに、多くの人と時間とコストを費やして調査されたそれらの結果は、無料で簡単に手に入れることができる。僕一人では生涯を費やしても、完成できないであろう仔細な調査の結果を。

だとしたら、それを使わない手はない。

簡潔にまとめられた利用者にとって便利な情報は、既に十分な量が供給されている。そこに加わって、同じような情報を提供してみたところで、世の中の利便性を向上できるとも思えない。そういった情報は、そういった作業が得意な方々にお任せすべきなのだ。

僕にできるとすれば、責任を持てるまで調べた情報を発信することぐらいだ。それさえしていれば、いずれ信用のおける情報元として認められる日が来るかも知れない。

需要を期待できるかは別にして。

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